『夜明けのすべて』の感想文

感想を書くのは難しい

『夜明けのすべて』の感想。人それぞれのつらさと優しさと、愛すべきところが、温かい光に満ちた16ミリフィルムの映像に収められている。と書けるのだけど、何だか私が感じたものには届かない。難しい。上手に文章を書くのは難しい。

栗田科学の男性社員3人が並んでインタビューを受けていた場面、会社のいいところを尋ねられたのに彼らはまるで答えられず、それどころか駅にもっと近いほうがいいなどと些細な不満をこぼしていた。感想を書こうとしている私は、まさにそういう気分だ。この映画をどうやってたたえればいいのかが分からない。

映画のいいところを書こうと思っても、最初に書いたような大まかな言葉しか出てこない。きちんと書きたいのに、あまりよく知らない人に向かって「あの映画、よかったですねえ」と、それだけを何度も繰り返すような、そんなふんわりとした言葉になってしまう。それは大きな事件が起こらないし、誰も大きな声で泣いたり叫んだりしない映画だからかもしれない。

とはいえ、私たちが受け取った感情や感覚は、監督とスタッフ、キャストが繊細に積み上げた細部とそれらの連なりの結果だ。だから細部についてなら少しは言葉を書き出せるのではないか。本当に語りたいことの周りに少しずつ点を打って、その輪郭を探れるのではないか。

あくまでも輪郭でしかないし、輪郭の中身は言葉から逃げてしまうのだけれど。輪郭をなす点は疎らで間抜けな輪郭しか描けないけれど。

 

はじまり

映画は、優しい鼓動のような音楽で始まる。ビブラフォンかな。映っているものに反して優しい。映っているのは、雨の中、バス停のベンチに突っ伏す女性、藤沢さんだ。そこにモノローグが重なる。語られるのは自分自身に対する分からなさや彼女が抱える困難について。声音の端々に、私の知っている上白石萌音とは違う暗さや諦めを漂わせる。

ショッキングな状況にある彼女の体とそれを俯瞰するような暗い彼女の声、それらを包む音楽。体とモノローグと音楽の3つがそれぞれ別に次元にあるために、音と空間が平板ではなく豊かに立ち上がる。特別な映画が始まることがこれだけで分かる。

 

本当に細かい点をひとつだけ

警察署から出る藤沢さんと母親の場面。ふたりの仲のよさが伝わるだけではなく、コートを軽やかに扱う母親の動きが終盤の姿と対照的で、映画を見終わった時に改めて強く記憶に刻まれる場面だ。

私の目に止まったのは、ふたりの後ろに掲示されている交通事故の死亡者数がちゃんと「0人」だったこと。最近は交通事故で死ぬ人が少ないので「0人」であることは普通で、作り手の意思の所在は不明とはいえ、この小さな数字が映画の穏やかな世界の一部であることに、私は少しうれしくなっていた。そういううっすらと明るい小さな点がたくさんあつまって、映画を構成している。

 

山添君の部屋にさす光(隙あらば侵入する)

藤沢さんが山添君の髪の毛を切る場面はとても楽しい。山添君がバネ仕掛けの散髪用ポンチョのようなものをポンと広げる動作から、おかしさが始まる。この場面のふたりの動きのひとつひとつにおかしさがある。ふたりとも、コメディ映画に出演したところが見たくなる。

しかし私が今書きたいのは、おかしさについてではなく、彼の部屋にさし込む光についてだ。散髪シーンに先立つ、ふたりが互いの困難を打ち明ける玄関先のシーンでは、藤沢さんが去ったあと、山添君が光を遮るかのように閉じるドアが印象的だった。(ドアは閉じられても、彼の部屋にはそこかしこの隙間から光が入り込んでいる)

それがこの散髪シーンでは、部屋に入ってきた藤沢さんが無造作に部屋のカーテンを開けて外の光を部屋に呼び込む。まっすぐに映画的な意味を持つ、とても自然な動きだ。この動きが存在することと、彼の部屋に光が入ってきたこと両方に心が浮き立つ。(部屋に入って、散髪という暴挙に出る藤沢さんの行動は隙間から入り込んでくる光みたい)

それにしてもこの映画は、夜景ににじむたくさんの小さな光、部屋にさし込む光、事務所内の少し高い位置にある休憩所の光、プラネタリウムの光、中学生たちが撮影したドキュメンタリーを投影する光、光に満ちている。

停電の夜、栗田科学の従業員のそれぞれが灯した携帯用ライトの光も忘れられない。

 

助走をつけて自転車をこぎだす

そして私が喜びに打ち震えたのが山添君がおそらく初めて自転車に乗るシーンだ。同じ思いの人はたくさんいるだろう。

はじまりは、体調不良で早退した藤沢さんの忘れ物に気づいた山添君が鳴らす、彼女のスマートフォンの通知音だ。それは意外にも彼のすぐ隣のデスクから聞こえる。ふたりは連絡先を交換していて気軽に連絡できる状態であるという事実に私は軽く驚いた。就業時間外にも一緒に作業していたことを思えば、実は何の不思議もない。

ささやかな驚きはそれだけにとどまらず、私たちはこの後、山添君が栗田科学の作業服を羽織る瞬間を初めて目撃する。これが映画の中の人たちにとっても当たり前の行動ではなかったことが、画面の中、彼の背後に収められた社長のうれしげな表情から見て取れる。住川さんの口元もわずかにほころんでいたような気がする。私だってうれしい。小さなうれしい事件の二連発だ。

そしてすぐに場面は山添君のアパートの玄関先に移り、彼は自転車のチェーンキーの暗証番号を回す。この時、彼がわずかにもらす息のわずかな音だけで、それが慣れた動作ではないことが示される。そうやって私たちが小さな音に集中して神経がピンと張られた直後、彼は自転車にまたがる。その時のまぶしい光。露出オーバーなのかな。映画の穏やかなトーンからはみ出るようなまぶしさ。

その後、軽い下り坂で加速したりしつつ、自転車は藤沢さんの家へと軽やかに進んでいく。そして彼女の家に着く直前に、彼は上り坂に遭遇する。ちょうど上り坂が始まる地点で日向は終わり、くっきりとした日陰が始まる。彼はその手前で逡巡し、自転車を降りる。ゆっくりと自転車を押して上る彼の横、すいすいと坂を上っていく、いわゆるママチャリ。この映画のほぼ冒頭(藤沢さんの過去シーンのあと)からずっと、生活の中の自転車は彼の前を横切っていた。彼が走り出す予兆みたいなもの。その予兆は最初からずっと映画の中に満ちていた。

藤沢さん宅に着いてもふたりは顔を合わせることはなく、山添君は声と届け物だけ残して帰路につく。藤沢さんがベランダで外の光を浴びるショットに続く、この帰路が動きのクライマックスだろう。

少し遠くから捉えられた児童公園の脇のゆったりと長い下り坂。子供たちの声も聞こえていたように思う。そんな中、すーっと加速していく自転車に呼応して、私の気持ちも高ぶる。こんな時、自分は映画が好きなのだとはっきりと分かる。スクリーンの中で何かが動くだけで、とてもうれしくなるような映画。そういう映画が好きだ。

この後、小さな段差を自転車を抱えて上る山添君を映して、自転車シーンは終わる。興奮した私たちの気持ちを受け止めてくれるのは、彼が会社の従業員たちにお土産として買ってきたたい焼きである。温かい句点のようなたい焼きだった。

 

夜明けの「すべて」

最後のシーンにも触れておきたい。

遠くの高い場所から、栗田科学の玄関前の開けた敷地を撮ったカット。ほかの社員にコンビニで買ってきてほしいものはないかと声をかけたあと、こなれた雰囲気で、「ゾエ味」(パンフレット参照)を醸し出すヘルメットを被って、自転車で出かける。栗田科学の従業員とダンくんともうひとりの中学生、別々のことをしているみんなが四角い画面に収まっている。ブリューゲルの絵みたいだ。

この画面がとても好きなんだけど、どうしてだろう。引いた画が普遍性を感じさせるからか、山添君の打ち解けた姿も「すべて」の中のひとつとして感じられるからか。映画中に登場し、監督が松村北斗に渡したという「POWERS OF TEN」(パンフレット参照)のカメラの動きのような、宇宙につながる気配が感じられるからかもしれない。

フレームにきちんと収まっているけれど、それがかえって広がりを感じさせる、そんな画面で映画は終わった。

 

映画館の外は、あたたかい光

これっぽっちの点では何の輪郭も浮かび上がらないけど、点を打とうとせっせと慣れない作業をしている私のうれしい気持ちは伝わったのではないかと思う。

映画を観たあと、気持ちよくなった私は映画館の周りをむやみに歩き回った。カフェの中より外にいたい気持ちだった。そのうちGoogleマップで公園を見つけ、そこでしばらくひとりで過ごした。最高に気持ちのいい時間だった。あの時間も、映画と一緒にずっと忘れないだろうな。

映画で描かれていたのも年末から4月ごろまでの季節。ちょうど今の時期と重なる。こんなふうに少しずつ暖かくなる時間を彼らはたどったのだろうと想像する。映画の中の光が、現実に広がるみたいだ。