『夜明けのすべて』の感想文

感想を書くのは難しい

『夜明けのすべて』の感想。人それぞれのつらさと優しさと、愛すべきところが、温かい光に満ちた16ミリフィルムの映像に収められている。と書けるのだけど、何だか私が感じたものには届かない。難しい。上手に文章を書くのは難しい。

栗田科学の男性社員3人が並んでインタビューを受けていた場面、会社のいいところを尋ねられたのに彼らはまるで答えられず、それどころか駅にもっと近いほうがいいなどと些細な不満をこぼしていた。感想を書こうとしている私は、まさにそういう気分だ。この映画をどうやってたたえればいいのかが分からない。

映画のいいところを書こうと思っても、最初に書いたような大まかな言葉しか出てこない。きちんと書きたいのに、あまりよく知らない人に向かって「あの映画、よかったですねえ」と、それだけを何度も繰り返すような、そんなふんわりとした言葉になってしまう。それは大きな事件が起こらないし、誰も大きな声で泣いたり叫んだりしない映画だからかもしれない。

とはいえ、私たちが受け取った感情や感覚は、監督とスタッフ、キャストが繊細に積み上げた細部とそれらの連なりの結果だ。だから細部についてなら少しは言葉を書き出せるのではないか。本当に語りたいことの周りに少しずつ点を打って、その輪郭を探れるのではないか。

あくまでも輪郭でしかないし、輪郭の中身は言葉から逃げてしまうのだけれど。輪郭をなす点は疎らで間抜けな輪郭しか描けないけれど。

 

はじまり

映画は、優しい鼓動のような音楽で始まる。ビブラフォンかな。映っているものに反して優しい。映っているのは、雨の中、バス停のベンチに突っ伏す女性、藤沢さんだ。そこにモノローグが重なる。語られるのは自分自身に対する分からなさや彼女が抱える困難について。声音の端々に、私の知っている上白石萌音とは違う暗さや諦めを漂わせる。

ショッキングな状況にある彼女の体とそれを俯瞰するような暗い彼女の声、それらを包む音楽。体とモノローグと音楽の3つがそれぞれ別に次元にあるために、音と空間が平板ではなく豊かに立ち上がる。特別な映画が始まることがこれだけで分かる。

 

本当に細かい点をひとつだけ

警察署から出る藤沢さんと母親の場面。ふたりの仲のよさが伝わるだけではなく、コートを軽やかに扱う母親の動きが終盤の姿と対照的で、映画を見終わった時に改めて強く記憶に刻まれる場面だ。

私の目に止まったのは、ふたりの後ろに掲示されている交通事故の死亡者数がちゃんと「0人」だったこと。最近は交通事故で死ぬ人が少ないので「0人」であることは普通で、作り手の意思の所在は不明とはいえ、この小さな数字が映画の穏やかな世界の一部であることに、私は少しうれしくなっていた。そういううっすらと明るい小さな点がたくさんあつまって、映画を構成している。

 

山添君の部屋にさす光(隙あらば侵入する)

藤沢さんが山添君の髪の毛を切る場面はとても楽しい。山添君がバネ仕掛けの散髪用ポンチョのようなものをポンと広げる動作から、おかしさが始まる。この場面のふたりの動きのひとつひとつにおかしさがある。ふたりとも、コメディ映画に出演したところが見たくなる。

しかし私が今書きたいのは、おかしさについてではなく、彼の部屋にさし込む光についてだ。散髪シーンに先立つ、ふたりが互いの困難を打ち明ける玄関先のシーンでは、藤沢さんが去ったあと、山添君が光を遮るかのように閉じるドアが印象的だった。(ドアは閉じられても、彼の部屋にはそこかしこの隙間から光が入り込んでいる)

それがこの散髪シーンでは、部屋に入ってきた藤沢さんが無造作に部屋のカーテンを開けて外の光を部屋に呼び込む。まっすぐに映画的な意味を持つ、とても自然な動きだ。この動きが存在することと、彼の部屋に光が入ってきたこと両方に心が浮き立つ。(部屋に入って、散髪という暴挙に出る藤沢さんの行動は隙間から入り込んでくる光みたい)

それにしてもこの映画は、夜景ににじむたくさんの小さな光、部屋にさし込む光、事務所内の少し高い位置にある休憩所の光、プラネタリウムの光、中学生たちが撮影したドキュメンタリーを投影する光、光に満ちている。

停電の夜、栗田科学の従業員のそれぞれが灯した携帯用ライトの光も忘れられない。

 

助走をつけて自転車をこぎだす

そして私が喜びに打ち震えたのが山添君がおそらく初めて自転車に乗るシーンだ。同じ思いの人はたくさんいるだろう。

はじまりは、体調不良で早退した藤沢さんの忘れ物に気づいた山添君が鳴らす、彼女のスマートフォンの通知音だ。それは意外にも彼のすぐ隣のデスクから聞こえる。ふたりは連絡先を交換していて気軽に連絡できる状態であるという事実に私は軽く驚いた。就業時間外にも一緒に作業していたことを思えば、実は何の不思議もない。

ささやかな驚きはそれだけにとどまらず、私たちはこの後、山添君が栗田科学の作業服を羽織る瞬間を初めて目撃する。これが映画の中の人たちにとっても当たり前の行動ではなかったことが、画面の中、彼の背後に収められた社長のうれしげな表情から見て取れる。住川さんの口元もわずかにほころんでいたような気がする。私だってうれしい。小さなうれしい事件の二連発だ。

そしてすぐに場面は山添君のアパートの玄関先に移り、彼は自転車のチェーンキーの暗証番号を回す。この時、彼がわずかにもらす息のわずかな音だけで、それが慣れた動作ではないことが示される。そうやって私たちが小さな音に集中して神経がピンと張られた直後、彼は自転車にまたがる。その時のまぶしい光。露出オーバーなのかな。映画の穏やかなトーンからはみ出るようなまぶしさ。

その後、軽い下り坂で加速したりしつつ、自転車は藤沢さんの家へと軽やかに進んでいく。そして彼女の家に着く直前に、彼は上り坂に遭遇する。ちょうど上り坂が始まる地点で日向は終わり、くっきりとした日陰が始まる。彼はその手前で逡巡し、自転車を降りる。ゆっくりと自転車を押して上る彼の横、すいすいと坂を上っていく、いわゆるママチャリ。この映画のほぼ冒頭(藤沢さんの過去シーンのあと)からずっと、生活の中の自転車は彼の前を横切っていた。彼が走り出す予兆みたいなもの。その予兆は最初からずっと映画の中に満ちていた。

藤沢さん宅に着いてもふたりは顔を合わせることはなく、山添君は声と届け物だけ残して帰路につく。藤沢さんがベランダで外の光を浴びるショットに続く、この帰路が動きのクライマックスだろう。

少し遠くから捉えられた児童公園の脇のゆったりと長い下り坂。子供たちの声も聞こえていたように思う。そんな中、すーっと加速していく自転車に呼応して、私の気持ちも高ぶる。こんな時、自分は映画が好きなのだとはっきりと分かる。スクリーンの中で何かが動くだけで、とてもうれしくなるような映画。そういう映画が好きだ。

この後、小さな段差を自転車を抱えて上る山添君を映して、自転車シーンは終わる。興奮した私たちの気持ちを受け止めてくれるのは、彼が会社の従業員たちにお土産として買ってきたたい焼きである。温かい句点のようなたい焼きだった。

 

夜明けの「すべて」

最後のシーンにも触れておきたい。

遠くの高い場所から、栗田科学の玄関前の開けた敷地を撮ったカット。ほかの社員にコンビニで買ってきてほしいものはないかと声をかけたあと、こなれた雰囲気で、「ゾエ味」(パンフレット参照)を醸し出すヘルメットを被って、自転車で出かける。栗田科学の従業員とダンくんともうひとりの中学生、別々のことをしているみんなが四角い画面に収まっている。ブリューゲルの絵みたいだ。

この画面がとても好きなんだけど、どうしてだろう。引いた画が普遍性を感じさせるからか、山添君の打ち解けた姿も「すべて」の中のひとつとして感じられるからか。映画中に登場し、監督が松村北斗に渡したという「POWERS OF TEN」(パンフレット参照)のカメラの動きのような、宇宙につながる気配が感じられるからかもしれない。

フレームにきちんと収まっているけれど、それがかえって広がりを感じさせる、そんな画面で映画は終わった。

 

映画館の外は、あたたかい光

これっぽっちの点では何の輪郭も浮かび上がらないけど、点を打とうとせっせと慣れない作業をしている私のうれしい気持ちは伝わったのではないかと思う。

映画を観たあと、気持ちよくなった私は映画館の周りをむやみに歩き回った。カフェの中より外にいたい気持ちだった。そのうちGoogleマップで公園を見つけ、そこでしばらくひとりで過ごした。最高に気持ちのいい時間だった。あの時間も、映画と一緒にずっと忘れないだろうな。

映画で描かれていたのも年末から4月ごろまでの季節。ちょうど今の時期と重なる。こんなふうに少しずつ暖かくなる時間を彼らはたどったのだろうと想像する。映画の中の光が、現実に広がるみたいだ。

早稲田松竹で松村北斗の特集!?(違うよ)

昨日から早稲田松竹という、高田馬場にある映画館で『すずめの戸締まり』と『キリエのうた』が2本立てで上映されていますね。名画座と呼ばれているタイプの映画館なので2本立てです。1本の値段で2本観られる。いや、1本の値段より安いです。一般なら1300円です。さらにさらにラストの1本だけなら800円で、大きなスクリーンで映画を観ることができます。

名画座って値段が安いだけじゃなくて、その2本立ての取り合わせや何を上映するかなどにも個性があって面白いのですが、そのあたりに触れつつ、俳優松村北斗の前途を祝したいと思って、これを書いています。

 

12月に今回の上映を知って、ひとりXで盛り上がっていました。

引用ポストでは、あまり盛り上がりが感じられないのが残念ですが、これで結構盛り上がっています。

早稲田松竹松村北斗特集をするのだとしたら、これはちょっとすごいことではないか。少なくとも私としてはすごいことです。私が何十年ものぞいていた界隈、SixTONESとはまったく交わらないと思っていた世界に松村北斗がVIP待遇でやってきた、そんな感じです。

 

劇場のホームページをチェックしたら、どんな劇場かはすぐに分かるのですが、この次の番組のテーマは「マーティン・スコセッシに花束を」です。マーティン・スコセッシ、『タクシードライバー』の監督です。最近ではディカプリオ主演の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』を撮りました。その大監督と並ぶ位置に松村北斗が?スタッフに強火のオタクがいるの?と私は盛り上がったわけです。

もちろん落ち着いて考えたら分かるんですけど、『すずめの戸締まり』と『キリエのうた』の共通点は松村北斗だけではないんですよね。物語の根幹に関わる部分がつなっがっている。この2つの作品はどちらも震災で大切な人を失った人たちを描いています。そっちです。早稲田松竹が特集のテーマとして選んだのはそっちです。今回の番組のテーマは「岩井俊二×新海誠 終わらない“あれから”を生きる」です。

さて、今回は2本立てと同時にもう1本、レイトショーの上映があります。かつて早稲田松竹では2本立てのみだったように記憶していますが、いつのまにかレイトショーやモーニングショーも一緒に組まれるようになっていました。今回のその3本目が『異人たちとの夏』。主人公がずいぶんと大人になってから、幼いころに亡くしたはずの両親と出会い、共に過ごしたひと夏の日々が描かれています(未見なので、Wikipediaの知識です)。3本目も残された人の物語です。特集としては別の扱いのようですが、これもまたつながっています。

実は、この番組にはもうひとつ面白い部分があります。『異人たちとの夏』の大林宣彦監督は2020年に亡くなられているのですが、その直前に岩井俊二監督に向けて、多大な期待を込めたメッセージを残しています

ここでは『キリエのうた』の岩井俊二監督自身が残された側として存在し、物語の中だけでなく現実世界のこの番組内にも、去った人と残された人という同じ構図が隠されています。とても面白い番組だと思いました。

 

名画座の番組は、単純に監督縛りや俳優縛りの番組が多いのですが、たまに観た後でないとつながりが分かりづらいような番組もあります。さらに、あまり興味のない作品と自分が観たい作品が2本立てになっている時もあり、ついでに観たことがきっかけで魅力を知り、世界が広がることもあります。なかなか他の映画館では味わえない楽しみ方ができる場所なんです。

もちろん名画座は、そもそもその名のとおり「名画」を上映してくれる場所です。公開時にはまだ子供だったり興味がなかったりで見逃していた作品にひょっこり出会えたりもします。

などなど映画を観る時の選択肢に「名画座」も加えてみてほしいなと思っています(そうしたら、絶滅の日が少し先に延びるかもしれない)。東京なら、新文芸坐が一番有名でしょうか。いろんな取り組みをされています。それに目黒シネマ。キネカ大森だけかな。2本立ての概念が残っているところは、本当にわずかになってしまいました。

 

さて、こんな地味な界隈でまるで特集をされたかのように存在する松村北斗。なかなか得難い存在感の俳優になりましたよね。謎目線で書いていますが。

先日、アニー賞の声優賞へのノミネートもされました。ちなみに前回の受賞者は『マルセル 靴をはいた小さな貝』という作品の主演の方だそうです。過去分かりやすいところでは、2019年に『アナと雪の女王2』のオラフが受賞しています。

さらに『夜明けのすべて』の公開が控えています。彼の得難さ(内向性と美しさと俗っぽさ)(←雑だけどそれを語る能力と時間がないので)がいかんなく発揮された作品ではないかと期待しています。三宅唱監督は今後さらに海外での注目を集めるでしょうし、俳優松村北斗を確実に一歩先へと進ませる作品でしょう。こうやって彼のことを考える時、正直なところ、うれしい気持ちに少しだけ寂しい気持ちも混じります。

とはいえ、ただただ彼の前途に祝福あれと願いつつ、オタクをやっていくしかないですね。ついでに、おそらく彼とほとんどつながりのない内容の文章をここまで読んでくださった方々への祝福も願っています。

ジェシー(の姿が印刷された物体)と一緒に片道24時間ほどかけて旅してきた

旅立つまで

9月にジョージアアルメニアチェコという謎ルートで海外旅行に行きました。

そして何を思ったか、アクスタを持っていって写真を撮ることにしました。何を思ったかって、いつもと違うことをしたかっただけですけどね。もちろん、ここやXで人に見せたいという気持ちもありました。

誰にも公開してないアカウントなのに、自分でオチを想像しつつ、それでも静かに舞い上がっています。

そして、

とか書いたくせに、

私なりに精一杯ウケを狙おうと腹を括ったようです。

とはいえ、振り返ってみると、それほどたくさん撮っていませんでした。とりあえず時系列で並べます。

 

ジョージア

 

仁川国際空港のソファでコソコソと初撮影。

② ドーハのハマド国際空港のクマと。

ジョージアへは直行便がないうえに、安い航空券なので、あちこちの空港に寄りました。

遠景と撮ると、ピントを合わせるのが難しいことを学びました。観光旅行とアクスタ撮影は相性が悪いですね。

アクスタというとおいしそうな食べ物と撮影することが多いですが、私が頑なに景色と一緒に撮ろうとしたため、背景かアクスタのどちらかが必ずボケている写真たちをご覧ください。

 

 

トビリシ初日の宿のテラスから。ライトアップされた、ザ・観光地です。

② 背景に見えているのはトビリシの名所のはず。

 

 

① 初日に泊まった宿にもう一泊するはずだったんですが、突然「アクシデントがあって明日は断水だよ」と言われてしまい、別の宿に移りました。そこの部屋の窓からの眺めです。いかにも安宿感のある風景ですが、この窓は中庭に面していて、ここから近所の子供たちが遊んでいる様子など現地の人々の生活がうかがえる、私好みのいい部屋でした。

② 鉄道でクタイシへ。

 

 

① クタイシにある、世界遺産になりそこなったバグラティ大聖堂。

でも、聖歌が聞こえてきたり、お祈りしている人がいたり、現在も地元の人々の生活と共にある様子が印象に残っています。世界遺産になったほうのゲラティ修道院では撮影しませんでした。

② こちらは世界遺産の町、ムツヘタのジワリ修道院からの絶景がぼんやりと。

 

 

① これもジワリ修道院

アイドルのアクスタって、異教の偶像のようなものではないかと思い至り、背徳感に襲われ始めました。

② カズベキの山々を眺めつつ、すてきなホテルのテラスでカフェラテ。

壮大な山々に囲まれていても結局、すてきなカフェに惹かれてしまう悲しい現実。

 

 

トビリシ動物園。会心の1枚。どっちにもだいたいピントが合ってる!

ところで「ワオキツネザル」って名前、好きなんですよ。見た目を日本語で端的に説明する名前でありながら、「ワオ!」って感じが楽しくないですか。

 

アルメニア

   

① 夜行列車でアルメニアに移動して、ガルニ神殿。

神殿の場合は、偶像崇拝の問題はどんなふうに考えるべきでしょうか。

すでにアクスタ撮影に飽き始めているので、アルメニアに来てからは写真少なめです。

アルメニア歴史博物館。

一緒に写ってるのは、めっちゃ紀元前のかわいいやつら。

実はこの写真の撮影時、初めてアクスタが周りの人の目に留まってしまいました。近くにいた女性がアクスタを指差して「それはあなた?」と私に話しかけてきたのです。私は「いや、これは私じゃなくて、なんかアーティストみたいな、、」とか何とか答えましたが、気が動転した私は続けて、紀元前のかわいいやつらとアクスタを順に指さして”cute, cute, cute!“と口走っていました。女性は優しい笑みを浮かべて去っていきましたが、一体どんなふうに思ったんでしょうね。

 

チェコ

プラハに飛んで、カフカ博物館。後ろでぼやけてるのはカフカです。

プラハは人が多くてうんざりしてしまいました。街並みは文句なしに美しかったのですが、自分が見渡す限りの観光客の1人であり、求められているのはお金を使うこと、という現実をひしひしと感じてしまい、素直に楽しめない気持ちになりました。

 

 

① チャペック兄弟記念館へ向かう列車の窓から。

② その帰り。マレー・スヴァトニョヴィツェ駅。

とてもいい時間を過ごせたので、ご機嫌になってるところです。ご機嫌だと何でもすてきに見えて、後で見ると何の変哲もない写真を撮りがちです。

 

 

① リベレツの市庁舎。

② ヤブロネツ・ナド・ニソウにあるガラスとジュエリーの博物館で、ガラスでできたかわいいやつらと。

予定変更で、ちょっと地方に逃げてました。どちらも居心地のいい街でした。地方でリフレッシュしたあとは、プラハもより楽しめるようになりました。

 

感想

後半は明らかに飽きてますね。

旅のお供をしてくれたジェシーは、今はデスクの引き出しにしまわれています。一番よく開ける引き出しなので、しょっちゅう目が合うのですが、そのたびに”cute, cute, cute!“と口走った瞬間が脳内リプレイされます。 

羞恥心で気が滅入るような事態に陥らないのは、すでに似たようなリプレイに慣れすぎているせいです。年を取ってよかったことのひとつですね。

 

楽しかったけど、アクスタを撮るのはもうこれっきりかな。

もともと記念撮影の類いには興味が薄いですし、やっぱり撮影時の人目を気にする感じは苦手です。海外の観光地だとすでに異邦人なので自由な部分があり、撮影を敢行できました。普段と違うことをする楽しさが勝っていました。

本当ならここで「推しとの旅行ができて幸せ」と書いて、ブログを締めるべきなのかもしれませんが、私にとってアクスタは、しょせんは物体。道中、話しかけることも撫でることもなかったです。アクスタ撮影という楽しいミッションの相棒=小道具に過ぎませんでした。とてもcuteですけどね。

冷や冷やビクビク

作文が下手なので、しゃべるのが下手なのもこれが関係していると思って、練習したくて最近ブログを書いているわけですが、私の机は、小さなマンションのよくある間取りのリビングに続いた部屋にあるわけですよ。しかも(一応)仲良し家族をやってるんで(だいたい)、家族がしょっちゅう机周りに出没するんですよ。念のため書いておくと、私は成人した子を持つ母親なんですがね。で、私はシャイなもので、ブログの存在を家族に明かしていなくて、書いているところを見られたくない。しかもしかも、今、大学生の子供たちは夏休みじゃないですか。冷や冷やビクビク、家族が来たら、さっとPCの画面をYouTubeに変えたりしつつ、長い文章を書いているわけです。

つまり各回、無事に最後まで書けたことを祝福してやってください。

『リボルバー・リリー』原作小説を読むのも楽しかったよ

原作の小説と映画の違いについて感じたことについて津山を中心に書きます。違いをひとつひとつ挙げてもキリがないので、描き方についていくつか。ネタバレ満載の予定です。

 

 

 

津山大尉の「汚れ」

映画との違いで一番興味深かったのは、津山に妊娠中の妻と祖母という守るべき家族がいたことではなく、小沢大佐が津山に性的欲望を向けていたことです。(界隈で盛り上がりそうなネタですが、私の知らないどこかで盛り上がってますか。どこかで二次創作が生まれていたりするのでしょうか)

原作では小沢の性的指向がはっきりと描かれています。津山の尻を撫で、その手を股間にまで滑らせる描写があるうえ、津山の死の知らせを受けて、「愛するものを奪われた憎しみなのだろう」などと自分の感情を分析しています。身近に控えさせている中尉との関係を匂わせる描写もあります。しかし映画では、これらの描写はごっそり削られていました。このため、ふたりの間には横暴な上官と部下という関係しかないように見えます。

しかし、そう見えるのはあくまでも表面上のこと、実際は違っているのではないでしょうか。小沢の同性愛描写については、映画に少し変わった取り入れ方がなされていたと私は考えています。直接的な描写や雰囲気として漂わすことはなく、ただひとつ、小沢の津山への性的欲望の記号が忍ばせてあったと私は理解しました。映画の演出として不可欠ではなかったものの、一部の者への目くばせのようなものとして。

小沢が津山に馬乗りになり口に銃を突っ込む場面がありましたね。ジェシー板尾創路はインタビューでもこの場面について何度も触れていました。銃は男性器の象徴、という考え方は、古典的な映像の読み解き方でしょう。あまりにありふれていて、私としては、あまりこの類のことに言及したくはないのですが、今回は目くばせとして「記号」であること自体に意味があったと考え、ここに書くことにしました。

この行為は原作には登場しません。長大な原作を映画に落とし込む時に多くのものを削ったにも関わらず、この行為を新たに採用しています。挿入箇所は、原作で股間を撫でまわしていた場面とほぼ同じ(だっと記憶しています)、津山が百合たちを取り逃した後の場面です。馬乗りで口に銃を突っ込む行為がその代替物であったことが想像できます。しかも、記号的なものに置き換わっているにも関わらず、行為が意味しているものは凌辱といっていいほどの苛烈なものになっています。

ジェシーはインタビューで「監督は「どんどん汚していきたい」と言っていた」と語っています。私は監督の「汚れ」という言葉の使い方が独特だと感じていたのですが、そこに性的に凌辱されることが暗に示されていたのかどうか、演者はそれを知っていたのかどうか、気になるところです。

 

軍人、それともただの人?

津山の描かれ方でもうひとつ面白い違いだと思ったのは、あのグレーのスーツです。

原作では「灰色の背広に臙脂色のネクタイ」と書かれているこのスーツを着て、百合との最後の戦いに臨みます。任務遂行中なので、突然挿入されるスーツの描写に違和感を覚え、記憶に残ります。原作のこの場面、津山は百合たちに家族を狙われ、行動に個人的な動機が大きく影響を与えている局面です。ここで津山は、軍服ではなく灰色の背広で、任務遂行中とはいえ、家族の命を脅かされながら、最期を迎えます。映画では「軍の力なくして国を守ることなどできん」という強い言葉を遺して死ぬのですから、両者は大きく違っています。

原作でも津山が軍人を続けた理由として同様の思いがあったのかもしれません。原作では、津山が背負っていた、軍を辞めてしかるべき環境については触れられているものの、辞めなかった理由については敢えて明示されていません。また映画では、一般人を殺すことから目を逸らすのはこのスーツの時です。これらから、津山が冷酷な軍人ではなく常識的な心の温かさを持った人物でもあること、同時に軍人としての誇りを強く持っていたこと、この両方を原作と映画の津山が共通して持っていたと推察できるでしょう。しかし、原作と映画で強調される部分がはっきり違っています。

原作を読んだことで、映画序盤のあのスーツ姿が持つ意味の大きさを新たに感じることができたのは、大きな収穫でした。

 

映画では描かれなかったもの

小沢の性的な行為が記号として映画に残されたのに対して、映画でばっさりと削られたのが17歳の琴子と14歳の慎太の性的な行為です。琴子からの一方的な行為で恋愛感情は絡んでいません。映画化に際して、何を残して何を削ったか、その理由を考えるのもまた、楽しみのひとつですね。

 

岩見=長谷川博己のカッコよさに寄与したもの

もうひとつ、扱いの違いが面白かったものが岩見のたばこです。原作では、最初、岩見は過去のトラウマ故にたばこを忌避し、物語終盤でやっとトラウマを乗り越え、再びたばこを吸い始めます。対する映画では、初登場時に吸い殻をポイ捨てする場面が出てきます。なぜ、たばこを吸うだけではなく「ポイ捨て」させたか、原作を読んでからはその理由を強く感じてしまい、もともと印象的なあの場面がいっそう好ましくなりました。あれは、岩見のトラウマは映画では描かないとはっきりと宣言する動きではないでしょうか。これも原作を読んだ者への目くばせです。これを長谷川博己が洒脱にやってのけるものだから、原作を読んでから映画を観た人たちは、あのポイ捨てだけで、新しい何かが始まると、ワクワクしたのではないでしょうか。

アクション映画において、複数の登場人物がそれぞれに過去を匂わせていては、物語がもたついてしまいます。あの仕草で、岩見が映画の軽やかさを担当すると観客に印象付けることができる。映画で、岩見が抜きんでてカッコよく見えた理由がここにあるような気がします。

 

原作の楽しみ方

映画を原作小説と比べて読むのは、実はこれが初めてで、普段は原作を読むとしても、単純に別物として楽しんでいます。しかし前回、映画についてブログを書いたために、脳みそが細かい描写を拾ってしまい思考が広がり、これを書きたくなりました。映画化する際に作り手がたどった検討のプロセスを想像するという、新たな楽しみ方ができて、有意義な時間でした。

(そうそう、あの映画で登場した不思議な白髪のおばあさん。原作小説でもチラリと登場していますよ)

『リボルバー・リリー』津山ヨーゼフ清親を中心に

ジェシーはどうだったのか

ジェシーは間違いなく、よかった。正直なところ、実際見るまではメディアを通して聞く賛辞を少し疑っていたが、よかった。

インタビューでも「司令を出す立場の人間は弱い」*1と言っていたが、彼が演じた津山ヨーゼフ清親大尉の冷酷で卑劣な悪役ぶりに、弱さとその下敷きになっている孤独が透けてみえる塩梅がよかった。部下を引き連れ、さらに盾にまでする戦い方、それを何度も繰り返す卑劣っぷりは、他の映画では見たことのないレベルで、ひとつの見どころだったと思う。さらに、声の演技や軍服に包まれた身体のブレのなさという悪役としての強さを見せていた。にもかかわらず、津山の佇まいや目の表情に、孤独や弱さを感じ取ることができたのはわたしだけだろうか。これらは、本来、私がジェシーの持つ柔らかさを好むがゆえに強く感じたとは思うが、演出面でも意図的に、この点を強調するよう表現されていたように思う。

まず明らかに弱さを見せるのが、板尾創路演じる小沢大佐により口に銃を突っ込まれる場面。小沢はシベリアで戦った津山の過去についてもセリフで触れている。小沢といる時は、いつも部下としての立場の弱さを見せるが、これは分かりやすい。

それよりも私が面白いと思ったのは、津山の状況を衣装や演出によって暗示的に表現していた部分だ。

初登場は、ストライプスーツを上品に着込んで、脚を組んで座っている場面だ。背後から静かな光が差している。プロモーション映像で繰り返し見た、あれだ。彼が登場するより先に、パナマ帽とベスト姿の部下たちが大勢、画面に現れるが、その直後に登場する津山と服装が似ている。帽子は一見同じ、スーツも似た色味のスリーピーススーツだ。違いは、津山がきちんとジャケットまで着込んでいること。津山は彼らと同じだけど違っている。ほぼ同じだからこそ際立つ違いを最初の登場から感じさせる、よく設計された衣装だと思う。陸軍における彼の孤立があの場面だけで感じられる。この後、軍服を着た場面でも、津山のものだけ色味が少し違う。*2

またジェシー自身、パンフレット内のインタビューで、津山は「一般人を撃つ時は目を逸らす」と言っている。これは細見家の使用人たちが殺される場面のことだろう。確かに津山は光の差す窓の外を向き、使用人たちに背を向けていた。この演技はおそらく監督の指示であり、やはり津山というキャラクターの弱さを伴う深みをはっきり描こうとしていたのだろう。

もう一点、津山の描き方で興味深かったのは、ジェシーの体格のよさが敢えて消されていたことだ。

津山には常に中尉の三島=内田朝陽随行していた。内田朝陽ジェシーとほぼ同じ身長だが若干体に厚みがある。このふたりが常に並んでいるため、ジェシーの身長の高さはあまり感じられない。感じられるのは小沢大佐との場面くらいだ。また内田朝陽のはっきりとした力強い目鼻立ちもまた、ジェシー演じる津山の柔和さを含んだ顔立ちを強調していたのてはないか。

 

津山(ジェシー)と南(清水尋也

さて、深さを与えられていた津山のキャラクターと対をなすのが、清水尋也が演じた南の描かれ方だ。両者ともに百合を襲う立場であるが、キャラクターが全く違う。津山には国や軍に対する思い入れが感じられるが、南にはそれがない。南は、背負った過去や社会に対する思いはなく、陸軍の手先として働きながら、望んでいたのは、ただ百合との対決だった。

この映画では、ジェシーと違い、清水尋也の突出した容姿を活かす画面が印象に残った。作品中、意外にインパクトの強いレイアウトの画面は少ないのだが、清水尋也登場場面では何度もそれが見られたように記憶している。ひょろりとした体躯とフェミニンな雰囲気もある顔が存分に生かされている。私は彼のまつげの長さの価値をこの映画で実感した。

南については、軍服姿もまた印象に残っている。百合を撃った後、背を見せて悠然と去っていく後ろ姿、痩せた体に沿わないぶかぶかの軍服をベルトで強引に体にまとわせた様子は、彼が軍の存在に重みを感じていない証拠だろう。ここでも、「混血」という立場による逆境を匂わせながら、軍人を貫いた津山との対比が感じられる。

戦い方も好対照だ。津山が卑劣な団体戦に始まり、泥臭い力任せの肉弾戦を見せたのに対し、南は互いの隙を伺って一瞬の動きで勝負をつける洗練された戦い。はっきりと対になっている。

 

ところで、私は行定勲監督作品を『GO』しか観ていないのだが、『リボルバー・リリー』の津山をとおして感じられたジェシーの弱さの気配は、当時の窪塚洋介がまとっていたものと通じているように思う。

 

俳優陣のカッコよさ

さて、ジェシーについて長々と書いたが、この作品で一番輝いていた俳優は、長谷川博己だろう。彼が演じた岩見は、何らかの過去を感じさせつつ、ひょうひょうと街の相談役を務め、その一方で海軍や内務省の幹部たちと渡り合う凄腕ぶりだ。また時に、青少年のような百合への恋愛感情をちらつかせたりもする。

彼と内務省の植村=吹越満紫煙をくゆらせながら対峙する場面は、この映画で一番質の高いものだったように思う。過去を解き明かす説明的な場面であるが、ふたりの俳優の味わい深さにより、その過去に特別な意味が与えられていた。

また、ここでも衣装の対比がよかった。岩見は常に濃い色のスーツを来ているが、内務省の植村は明らかに他とは違う明るいベージュ。植村が異質な存在であることが一目で分かる。

岩見は山本五十六阿部サダヲとの場面もよかった。ふたりの場面の中で、岩見は「守りたい」という思いを口にして戦いに加わったが、この行動には、単純な「戦争反対」という考え方に対する、複雑さを示す視点が仕込んであったのではないか。

俳優陣は全員見事で、まず羽村仁成の、目の前ですくすくと伸びていきそうな成長期の体と幼さの残る表情に惹きつけられたし、幼さの残る顔といえば、古川琴音の個性を存分に生かした演技は楽しいし、シシド・カフカにライフルを持たせたのは天才の所業だし、石橋蓮司は拝めるだけでうれしいし、などなど。

 

東映アクション映画」?

ただ、「東映アクション映画」と銘打つには柔らかい。

東映のアクション映画といわれると、私は任侠映画のイメージだ。『仁義なき戦い』や『緋牡丹博徒』が頭に浮かぶ。だが、そのタイプの映画で見られるようなケレン味のある演出は少なく感じた。エノケンの曲をかけながらの戦いの場面や佐藤二朗の場面、終盤のマンホールの演出などは、その種のケレン味を多少感じたがアクションのメインはそれではなかった。あえてそのタイプの芝居っ気のある演出を避けたのではないかと思うくらいだ。

監督は原作者との対談で「耽美的なアクション」という表現を使っているが*3、衣装やセット以外、動きやレイアウトでそれを感じることは少なかった。戦闘場面の個々の動きを派手にして画面映えを狙っているのは感じたが、物足りなかった。

プロデューサーは、行定勲に監督を依頼したからには、その柔らかさで新しいアクション映画を作りたかったのかもしれない。しかも主演は、アクションには定評があるものの、柔らかさとは切り離せない綾瀬はるかだ。これは、制作の意図が従来の「凄みのある姐さん」タイプではなく、現代的な女性らしさが感じられる、新しい女性アクションヒーローを作ることにあったと思わざるを得ない。

その意気込みは評価するものの、正直なところ、物足りなさは否めない。

 

でも期待してる

大正時代を舞台にした、女性が主人公のアクションもの。この設定には、まだまだ面白みが詰まっていると思うので、ぜひ続きかスピンオフを見たい気持ちにはなった。

柔らかさと強さを備えた、新しい女性像の綾瀬はるか、彼女に寄り添う、スラリとカッコいいシシド・カフカと、幼い外見を何かに昇華したような古川琴音の3人による(流行りの)シスターフッドものをぜひとも見たいところである。これが実現した場合の衣装にも大いに期待している。

 

*1:https://mdpr.jp/interview/detail/3878321

*2:このストライプスーツについては、パンフレットでデザイン担当者の「色を少し薄めにストライプをハッキリ」させることで他との違いを出したとのコメントが載っている。軍服についても言及しているインタビューをネット見かけたが、場所を失念した

*3:https://ddnavi.com/interview/1167015/a/

『ベルリン・天使の詩』とSixTONESのジェシーをつなぐもの

『ベルリン・天使の詩』という映画を観てきました。1987年のフランス、西ドイツ合作映画です。当時はまだベルリンの壁があったので、「西ドイツ」と言われます。公開当時から評価の高い映画でした。私も当時これを観て、とても好きな映画のひとつになりました。

その映画とジェシーをつなげて語ろうとするのは、世界でたぶん私ひとりだけでしょう。これからネタバレも含んだ話を書くと思いますが、SixTONESファンでこの映画を観ようとする人で、なおかつこのブログを読む人は皆無に近いと思うので、あまり意識せず書いていきます。そもそもネタバレされて困ってしまうような映画ではありませんし。

 

SixTONESの中でも、とりわけジェシーが好きになってから、この映画に出てくる天使と彼が私の脳内で結びついて、何十年も観ていないこの映画をもう一度観なければという気持ちをずっと持っていました。そんな中で今回、リニューアルされたばかりの新文芸坐での上映はまたとないチャンスでした。

 

ここで私が映画と結びつけるジェシーは、実在人物というよりは私が自分の都合に合わせてイメージを再構築したジェシーだと思います。とはいえ、ジェシーの優しくて純粋な部分を天使と結びつけることに対して、私以外のオタクも抵抗はないのではないでしょうか。さらに、この映画に出てくる天使は立派な体格の大人ばかりです。これだけで、もう書くべきことはなくなったかもしれません。Twitterで「ベルリン天使の詩って映画を観てきたけど、この映画の天使は体格のいい大人ばっかだからジェシーみたい」と書けば終わりです。それでもこうやって長い文章を書いているのは、私にとって思い入れのある映画にジェシーがつながっているということが、ちょっと面白いと思うからです。そのつながり具合をうまく文章にできたらいいなと思いながら書いています。

 

この映画の天使たちは、普通の大人の姿で街のあちこちに現れ、とめどなく漏れてくる人々の心の声を耳にし、悲しんでいる人にはそっと寄り添って、少しだけ心を軽くしてあげる、そんな存在です。彼らの姿や声を人間は感じることができません。子供たちには見えている時もあるようですが。逆に天使たちは、人間の世界の色彩や温度、何かに触れた感覚を経験できません。

物語の後半では、主人公の天使ダミエルはある女性と出会い、またピーター・フォーク(若い人には分からないだろうけど刑事コロンボ)の誘いに乗り、人間になります。ピーター・フォークも元天使です。

 

さて、私がジェシーを結びつけるのは、この人間になった元天使のほうです。そして、私自身が感情移入するのは、モノクロの街で人々の心の声を聞いている天使のほう。こうやって、ふたつに分けて考えると、私が彼に惹かれる理由が見えてくるような気がします。

 

この映画で私が一番好きなのは図書館の場面です。広々とした近代的な空間で、それぞれ本に向かうたくさんの人たち。そして彼らの心の声がざわめきになって空間を満たしています。近づかなければ聞こえない小さな声がたくさん聞こえます。心の声の多くは、彼らが読む本の一節のようです。天使たちにとっても、図書館は居心地がいいのでしょう。他の場所よりも大勢の天使が集まっています。吹き抜けの高い所に腰かけていたり、空いた座席に澄ました顔で座っていたり、熱心に勉強している人の肩に手を添えたり。ざわめきをざわめきのまま浴びるように聞いている天使もいます。この、図書館に満ちるざわめきのイメージが、実際に図書館に行った時に私が持つ感覚ととても似ていて、だから私はこの場面が特別に好きなのだと思います。

 

さて、元天使のどんなところがジェシーに結びつくのか。それから、そろそろ名前を連呼するのが恥ずかしくなってきたので、ここからJSと表記しますね。私の脳内で再構築されたアイドル、JSです。

主人公のダミエルが人間になって、(ベルリンの?)壁のそばに倒れていると、天から金属製の鎧が彼の頭に落ちてきます。まるで日本のコントの金だらいのようです。彼が人間になったため街は色づいているのですが(映像がモノクロからカラーになる)、さらに金だらいのおかげで、ほがらかな空気が流れ始めます。ダミエルは、鎧がぶつかった頭に手を当て、その手についた血の赤さに興奮します。初めて目に飛び込んできた鮮やかな色に舞い上がり、最初に出会った人に、壁に描かれたカラフルな絵の様々な部分の色の名前を尋ねます。この、感覚に素直に反応するところが実にJSらしいと思うのです。

またダミエルは人間になる直前に天使仲間と会話し、人間になった最初の日に何をしたいのかを語るのですが、「最初の日は特別待遇だ。頼み事は断り、誰かが僕につまずいたら、謝ってもらう」と言います。ちょうど昨日の『バリューの真実』で、今まで頼られすぎたから、困っている人を放っておくことにしたというJSの考え方と重なります。

もう一点、元天使のピーター・フォークがダミエルを勧誘する時に、スケッチで線を描く時の楽しさについて、「鉛筆を持ち、太い線を引く。それから細い線、二本でいい感じの線になる」と語ります。ここもJSがブログで「ズドン」をさまざまに並べて楽しんでいる様子と結びつきませんか。絵が上手だとか、センスがいいとか、そういった価値判断から離れて、線の存在、文字の並び自体を楽しんでいるように見えます。

最後にもうひとつ。彼は落ちてきた鎧を古道具屋に持ち込み、引き換えに洋服を手に入れるのですが、それがマルチカラーの派手なブルゾンなのです。4Kリマスターのおかげか記憶よりも鮮やかな色のブルゾンを見た時、私は「答え合わせ」がやってきたような、「ほらね」という気分になりました。

 

ということで、ここまで読んでいただけたならば、すっかりJSが元天使に見えてきたはずですが、最後に映画中で朗読される詩の一節を。長い詩の第4連です。オタクの妄想力をもってすれば、この詩の中のいくつもの言葉からJSに思いを馳せることが可能だと思います。(例えば「サクランボ」を「四つ葉のクローバー」に変換してみたり)

「子供は子供だった頃」というフレーズは映画中、何度も繰り返されます。ドイツ語だと「Als das Kind Kind war」。この響きが、映画を観た時の感覚を思い出す呪文のように私の頭の中に残っています。

 

子供は子供だった頃

リンゴとパンを 食べてればよかった

今だってそうだ

子供は子供だった頃

ブルーベリーが いっぱい降ってきた

今だってそう

胡桃を食べて 舌を荒らした

それも今も同じ

山に登る度に もっと高い山に憧れ

町に行く度に もっと大きな町に憧れた

今だってそうだ

木に登り サクランボを摘んで

得意になったのも 今も同じ

やたらと人見知りをした

今も人見知り

初雪が待ち遠しかった

今だってそう

子供は子供だった頃

樹をめがけて 槍投げをした

ささった槍は 今も揺れている

 

(私が映画の細部を覚えているわけはなく、詩の引用含め、すべて映画のパンフレットに頼っています。公開当時のシャンテ・シネのものです。昔のミニシアターのパンフレットはシナリオが採録されているので、ゆっくり映画を反芻できます)