『ベルリン・天使の詩』とSixTONESのジェシーをつなぐもの

『ベルリン・天使の詩』という映画を観てきました。1987年のフランス、西ドイツ合作映画です。当時はまだベルリンの壁があったので、「西ドイツ」と言われます。公開当時から評価の高い映画でした。私も当時これを観て、とても好きな映画のひとつになりました。

その映画とジェシーをつなげて語ろうとするのは、世界でたぶん私ひとりだけでしょう。これからネタバレも含んだ話を書くと思いますが、SixTONESファンでこの映画を観ようとする人で、なおかつこのブログを読む人は皆無に近いと思うので、あまり意識せず書いていきます。そもそもネタバレされて困ってしまうような映画ではありませんし。

 

SixTONESの中でも、とりわけジェシーが好きになってから、この映画に出てくる天使と彼が私の脳内で結びついて、何十年も観ていないこの映画をもう一度観なければという気持ちをずっと持っていました。そんな中で今回、リニューアルされたばかりの新文芸坐での上映はまたとないチャンスでした。

 

ここで私が映画と結びつけるジェシーは、実在人物というよりは私が自分の都合に合わせてイメージを再構築したジェシーだと思います。とはいえ、ジェシーの優しくて純粋な部分を天使と結びつけることに対して、私以外のオタクも抵抗はないのではないでしょうか。さらに、この映画に出てくる天使は立派な体格の大人ばかりです。これだけで、もう書くべきことはなくなったかもしれません。Twitterで「ベルリン天使の詩って映画を観てきたけど、この映画の天使は体格のいい大人ばっかだからジェシーみたい」と書けば終わりです。それでもこうやって長い文章を書いているのは、私にとって思い入れのある映画にジェシーがつながっているということが、ちょっと面白いと思うからです。そのつながり具合をうまく文章にできたらいいなと思いながら書いています。

 

この映画の天使たちは、普通の大人の姿で街のあちこちに現れ、とめどなく漏れてくる人々の心の声を耳にし、悲しんでいる人にはそっと寄り添って、少しだけ心を軽くしてあげる、そんな存在です。彼らの姿や声を人間は感じることができません。子供たちには見えている時もあるようですが。逆に天使たちは、人間の世界の色彩や温度、何かに触れた感覚を経験できません。

物語の後半では、主人公の天使ダミエルはある女性と出会い、またピーター・フォーク(若い人には分からないだろうけど刑事コロンボ)の誘いに乗り、人間になります。ピーター・フォークも元天使です。

 

さて、私がジェシーを結びつけるのは、この人間になった元天使のほうです。そして、私自身が感情移入するのは、モノクロの街で人々の心の声を聞いている天使のほう。こうやって、ふたつに分けて考えると、私が彼に惹かれる理由が見えてくるような気がします。

 

この映画で私が一番好きなのは図書館の場面です。広々とした近代的な空間で、それぞれ本に向かうたくさんの人たち。そして彼らの心の声がざわめきになって空間を満たしています。近づかなければ聞こえない小さな声がたくさん聞こえます。心の声の多くは、彼らが読む本の一節のようです。天使たちにとっても、図書館は居心地がいいのでしょう。他の場所よりも大勢の天使が集まっています。吹き抜けの高い所に腰かけていたり、空いた座席に澄ました顔で座っていたり、熱心に勉強している人の肩に手を添えたり。ざわめきをざわめきのまま浴びるように聞いている天使もいます。この、図書館に満ちるざわめきのイメージが、実際に図書館に行った時に私が持つ感覚ととても似ていて、だから私はこの場面が特別に好きなのだと思います。

 

さて、元天使のどんなところがジェシーに結びつくのか。それから、そろそろ名前を連呼するのが恥ずかしくなってきたので、ここからJSと表記しますね。私の脳内で再構築されたアイドル、JSです。

主人公のダミエルが人間になって、(ベルリンの?)壁のそばに倒れていると、天から金属製の鎧が彼の頭に落ちてきます。まるで日本のコントの金だらいのようです。彼が人間になったため街は色づいているのですが(映像がモノクロからカラーになる)、さらに金だらいのおかげで、ほがらかな空気が流れ始めます。ダミエルは、鎧がぶつかった頭に手を当て、その手についた血の赤さに興奮します。初めて目に飛び込んできた鮮やかな色に舞い上がり、最初に出会った人に、壁に描かれたカラフルな絵の様々な部分の色の名前を尋ねます。この、感覚に素直に反応するところが実にJSらしいと思うのです。

またダミエルは人間になる直前に天使仲間と会話し、人間になった最初の日に何をしたいのかを語るのですが、「最初の日は特別待遇だ。頼み事は断り、誰かが僕につまずいたら、謝ってもらう」と言います。ちょうど昨日の『バリューの真実』で、今まで頼られすぎたから、困っている人を放っておくことにしたというJSの考え方と重なります。

もう一点、元天使のピーター・フォークがダミエルを勧誘する時に、スケッチで線を描く時の楽しさについて、「鉛筆を持ち、太い線を引く。それから細い線、二本でいい感じの線になる」と語ります。ここもJSがブログで「ズドン」をさまざまに並べて楽しんでいる様子と結びつきませんか。絵が上手だとか、センスがいいとか、そういった価値判断から離れて、線の存在、文字の並び自体を楽しんでいるように見えます。

最後にもうひとつ。彼は落ちてきた鎧を古道具屋に持ち込み、引き換えに洋服を手に入れるのですが、それがマルチカラーの派手なブルゾンなのです。4Kリマスターのおかげか記憶よりも鮮やかな色のブルゾンを見た時、私は「答え合わせ」がやってきたような、「ほらね」という気分になりました。

 

ということで、ここまで読んでいただけたならば、すっかりJSが元天使に見えてきたはずですが、最後に映画中で朗読される詩の一節を。長い詩の第4連です。オタクの妄想力をもってすれば、この詩の中のいくつもの言葉からJSに思いを馳せることが可能だと思います。(例えば「サクランボ」を「四つ葉のクローバー」に変換してみたり)

「子供は子供だった頃」というフレーズは映画中、何度も繰り返されます。ドイツ語だと「Als das Kind Kind war」。この響きが、映画を観た時の感覚を思い出す呪文のように私の頭の中に残っています。

 

子供は子供だった頃

リンゴとパンを 食べてればよかった

今だってそうだ

子供は子供だった頃

ブルーベリーが いっぱい降ってきた

今だってそう

胡桃を食べて 舌を荒らした

それも今も同じ

山に登る度に もっと高い山に憧れ

町に行く度に もっと大きな町に憧れた

今だってそうだ

木に登り サクランボを摘んで

得意になったのも 今も同じ

やたらと人見知りをした

今も人見知り

初雪が待ち遠しかった

今だってそう

子供は子供だった頃

樹をめがけて 槍投げをした

ささった槍は 今も揺れている

 

(私が映画の細部を覚えているわけはなく、詩の引用含め、すべて映画のパンフレットに頼っています。公開当時のシャンテ・シネのものです。昔のミニシアターのパンフレットはシナリオが採録されているので、ゆっくり映画を反芻できます)