『リボルバー・リリー』原作小説を読むのも楽しかったよ

原作の小説と映画の違いについて感じたことについて津山を中心に書きます。違いをひとつひとつ挙げてもキリがないので、描き方についていくつか。ネタバレ満載の予定です。

 

 

 

津山大尉の「汚れ」

映画との違いで一番興味深かったのは、津山に妊娠中の妻と祖母という守るべき家族がいたことではなく、小沢大佐が津山に性的欲望を向けていたことです。(界隈で盛り上がりそうなネタですが、私の知らないどこかで盛り上がってますか。どこかで二次創作が生まれていたりするのでしょうか)

原作では小沢の性的指向がはっきりと描かれています。津山の尻を撫で、その手を股間にまで滑らせる描写があるうえ、津山の死の知らせを受けて、「愛するものを奪われた憎しみなのだろう」などと自分の感情を分析しています。身近に控えさせている中尉との関係を匂わせる描写もあります。しかし映画では、これらの描写はごっそり削られていました。このため、ふたりの間には横暴な上官と部下という関係しかないように見えます。

しかし、そう見えるのはあくまでも表面上のこと、実際は違っているのではないでしょうか。小沢の同性愛描写については、映画に少し変わった取り入れ方がなされていたと私は考えています。直接的な描写や雰囲気として漂わすことはなく、ただひとつ、小沢の津山への性的欲望の記号が忍ばせてあったと私は理解しました。映画の演出として不可欠ではなかったものの、一部の者への目くばせのようなものとして。

小沢が津山に馬乗りになり口に銃を突っ込む場面がありましたね。ジェシー板尾創路はインタビューでもこの場面について何度も触れていました。銃は男性器の象徴、という考え方は、古典的な映像の読み解き方でしょう。あまりにありふれていて、私としては、あまりこの類のことに言及したくはないのですが、今回は目くばせとして「記号」であること自体に意味があったと考え、ここに書くことにしました。

この行為は原作には登場しません。長大な原作を映画に落とし込む時に多くのものを削ったにも関わらず、この行為を新たに採用しています。挿入箇所は、原作で股間を撫でまわしていた場面とほぼ同じ(だっと記憶しています)、津山が百合たちを取り逃した後の場面です。馬乗りで口に銃を突っ込む行為がその代替物であったことが想像できます。しかも、記号的なものに置き換わっているにも関わらず、行為が意味しているものは凌辱といっていいほどの苛烈なものになっています。

ジェシーはインタビューで「監督は「どんどん汚していきたい」と言っていた」と語っています。私は監督の「汚れ」という言葉の使い方が独特だと感じていたのですが、そこに性的に凌辱されることが暗に示されていたのかどうか、演者はそれを知っていたのかどうか、気になるところです。

 

軍人、それともただの人?

津山の描かれ方でもうひとつ面白い違いだと思ったのは、あのグレーのスーツです。

原作では「灰色の背広に臙脂色のネクタイ」と書かれているこのスーツを着て、百合との最後の戦いに臨みます。任務遂行中なので、突然挿入されるスーツの描写に違和感を覚え、記憶に残ります。原作のこの場面、津山は百合たちに家族を狙われ、行動に個人的な動機が大きく影響を与えている局面です。ここで津山は、軍服ではなく灰色の背広で、任務遂行中とはいえ、家族の命を脅かされながら、最期を迎えます。映画では「軍の力なくして国を守ることなどできん」という強い言葉を遺して死ぬのですから、両者は大きく違っています。

原作でも津山が軍人を続けた理由として同様の思いがあったのかもしれません。原作では、津山が背負っていた、軍を辞めてしかるべき環境については触れられているものの、辞めなかった理由については敢えて明示されていません。また映画では、一般人を殺すことから目を逸らすのはこのスーツの時です。これらから、津山が冷酷な軍人ではなく常識的な心の温かさを持った人物でもあること、同時に軍人としての誇りを強く持っていたこと、この両方を原作と映画の津山が共通して持っていたと推察できるでしょう。しかし、原作と映画で強調される部分がはっきり違っています。

原作を読んだことで、映画序盤のあのスーツ姿が持つ意味の大きさを新たに感じることができたのは、大きな収穫でした。

 

映画では描かれなかったもの

小沢の性的な行為が記号として映画に残されたのに対して、映画でばっさりと削られたのが17歳の琴子と14歳の慎太の性的な行為です。琴子からの一方的な行為で恋愛感情は絡んでいません。映画化に際して、何を残して何を削ったか、その理由を考えるのもまた、楽しみのひとつですね。

 

岩見=長谷川博己のカッコよさに寄与したもの

もうひとつ、扱いの違いが面白かったものが岩見のたばこです。原作では、最初、岩見は過去のトラウマ故にたばこを忌避し、物語終盤でやっとトラウマを乗り越え、再びたばこを吸い始めます。対する映画では、初登場時に吸い殻をポイ捨てする場面が出てきます。なぜ、たばこを吸うだけではなく「ポイ捨て」させたか、原作を読んでからはその理由を強く感じてしまい、もともと印象的なあの場面がいっそう好ましくなりました。あれは、岩見のトラウマは映画では描かないとはっきりと宣言する動きではないでしょうか。これも原作を読んだ者への目くばせです。これを長谷川博己が洒脱にやってのけるものだから、原作を読んでから映画を観た人たちは、あのポイ捨てだけで、新しい何かが始まると、ワクワクしたのではないでしょうか。

アクション映画において、複数の登場人物がそれぞれに過去を匂わせていては、物語がもたついてしまいます。あの仕草で、岩見が映画の軽やかさを担当すると観客に印象付けることができる。映画で、岩見が抜きんでてカッコよく見えた理由がここにあるような気がします。

 

原作の楽しみ方

映画を原作小説と比べて読むのは、実はこれが初めてで、普段は原作を読むとしても、単純に別物として楽しんでいます。しかし前回、映画についてブログを書いたために、脳みそが細かい描写を拾ってしまい思考が広がり、これを書きたくなりました。映画化する際に作り手がたどった検討のプロセスを想像するという、新たな楽しみ方ができて、有意義な時間でした。

(そうそう、あの映画で登場した不思議な白髪のおばあさん。原作小説でもチラリと登場していますよ)